「正しい」愛情あるいは「間違った」愛情というものは存在するのだろうか。

 というより、人が「愛情」を何者かに対して抱く時、本人にとってそれはいつも「正しい」愛情として意識されるのではないか。つまり、愛情を抱く本人が自分の愛を「間違っている」と思う例はあまり見られない気がする。例えば妻帯者を好きになり不倫した人間にも、(通り一遍の)世間の批判に対して自らの愛情を弁護する、自分なりの「正しい」言い分がある、というように。
 「正しい」愛情、「間違った」愛情とは、あくまでも第三者から見た判断の表現なのではないだろうか。


 しかし、愛する者が抱く「自分の愛情は正しい」という気持ちのその「正しい」とは、一体何を意味するのだろう。
 それは、「このように価値あるものに愛情を抱く自分の価値観は正しい」、極端にいえば「自分は正しい」「自分は価値のある人間だ」ということではないのか。何かを愛するということは、自分の価値を確認し、いっそう強めるもの、つまるところ自己愛の表現にすぎないのではないか? 愛情の対象は、結局自己を無意識のうちに投影したものだという一面を拭い得ないのかもしれない…という仮説。

 私は、私以外の何かや誰かを愛せるのだろうか?


 っつーか愛ってなによ。わからんからまた書く。